蔵前という街は、東京のなかでも独特の空気を持っています。最近では「東京のブルックリン」と言われるようですね。
浅草の華やかさから少しだけ距離を置いて、隅田川の匂いと、古い問屋街の面影と、近ごろ増えてきた小さな工房やカフェとが、ちょうどよく混ざり合った街並み。
そんな蔵前の一角に、「黒猫庵」というちょっと変わった蕎麦屋があります。
きっかけは、とある常連さんからの一言でした。
「面白い蕎麦屋があるから、一度行ってみるといいよ」
なにが面白いのかと伺ってみると、蕎麦屋なのに生牡蠣がめっぽう美味いのだ、と。
蕎麦屋といえば、天ぷらが定番。出汁まきや板わさ、焼き海苔あたりを蕎麦前として楽しんで、締めに蕎麦を手繰る。そんな流れが、私たちの頭に染みついた一般的な姿です。
そこに、生牡蠣ときたか。
これは行ってみないわけにいきません。
正直にいうと、私自身、貝類や生牡蠣は昔からあまり得意ではありませんでした。それでも噂を耳にしたからには、ということで、訪れるととても良い蕎麦屋でした。
この日は久しぶりに、六月半ばの少し蒸し暑い夜、暖簾をくぐりました。
この日は、お店に伺う前に、近所で贔屓にしているビール屋さんに一軒寄ってからの訪問。
すでに喉は潤っていたので、席に着くなり、まずは日本酒をお願いしました。
出していただいたのは、土佐のお酒。純米吟醸の、いわゆる「夏酒」と呼ばれる一本。
すっと透き通るような口当たりで、蒸し暑い夜にすうっと沁みていきます。
黒猫庵は夜のみの営業。だからこそ、蕎麦前をじっくり楽しむ流れが、この店の本領なのだと思います。
予約の際にも「少しお時間かかりますが、よろしいですか」と一言添えていただけるあたり、少人数で丁寧にやられているお店ならではの心遣いが伝わってきます。
最初に運ばれてきたのは、四種盛りのお通し。
どれもきちんと酒の肴として磨かれていて、なかでも印象に残ったのが、板わさの上にわさび漬けをちょこんと乗せた一皿。
かまぼこの淡いうま味と、わさび漬けのぴりりとした辛みと粘り。この組み合わせだけで、お猪口が何度も傾いてしまう。
わさび漬けだけを箸先で少しずつつまんでも、次の料理を待つ時間さえ、楽しいものにしてくれます。
そして、いよいよ生牡蠣。
この日は、「岩手 べっこオイスター響」、「千葉 江戸前オイスター爽夏」、「兵庫 梶本 室津牡蠣」、「宮城 石巻 柔」と4種類の産地違いの牡蠣が並んでいました。岩牡蠣も「茨城 鹿島 S」、「熊本 天草天領岩かき」とありました。
さんざん迷った末に選んだのは、「宮城 石巻 柔」。
一粒つるりと口に運ぶと、これがもう、驚くほどにミルキー。身も大きくて、味わいや香りも澄んでいる。
実のところ、オイスターバーで牡蠣を頼んでも意外に身が小ぶりだったりすることがあります。それだけに、ここまでしっかりした身の牡蠣を蕎麦屋で出していただけるとは、正直、少し面食らったほどでした。
かつて生牡蠣が苦手だったはずの私でも、思わず「もう一皿」と口にしそうになる。
そんな一皿でした。
さて、締めのお蕎麦です。
こちらでは、十割そばの産地食べ比べというのがあって、私はここに来ると、つい毎回これを頼んでしまいます。この日は以下の2種類。
・群馬 赤城深山 北早生 R7
・茨城 益子 常陸秋そば R6
産地によって、そばの香りも、味も、色も、驚くほど違う。
蕎麦好きにとっては、これほど楽しいメニューもなかなかありません。
薬味は辛味大根と葱のみ。あえてわさびは付けない構えです。
蕎麦つゆは、鰹の香りがしっかりと立ち上がる、少し濃いめのタイプ。
それでいて後口はすっと切れる。どんな蕎麦を合わせても受け止めてくれそうな懐の深さがあります。
一枚目の北早生は、ほのかに緑がかった色合い。
六月というのは、蕎麦にとってはあまり良い季節ではありません。新蕎麦の香り高い時期から少し遠ざかり、鮮度の落ちた蕎麦に当たることも少なくない時期。
それを承知の上でいただいたのですが、この一枚は驚くほど香りが立っていました。梅雨どきに、この香り。仕入れも、保管も、相当に神経を使われているのだろうと思います。
二枚目は、常陸秋そばは一枚目よりも少し灰色がかった色合い。
一枚目の北早生は野性味のある香りが印象深かったですが、こちらはすこし控えめの香りでそのぶん甘みを強く感じました。
また、十割そばというと、どうしてもぶつぶつと切れているものに当たることもあるのですが、こちらのそばは麺線がきれいに揃っていて、口当たりも滑らか。喉越しの良さまで含めて、麺切りの技量が伝わってくる一枚でした。
そして、最後は蕎麦湯。
こちらの蕎麦湯は、おそらく釜湯そのままではなく、別で用意しているかなりトロトロのクリーミーなタイプ。
蕎麦屋によっては、あえて釜湯の素朴さで勝負するところもありますが、この店はそば粉の香りを最大限に引き出すかたちを選ばれているようです。
つゆに割り入れて、ゆっくりとひと口。
蕎麦の香りが、口の中に広がって、最後まで名残惜しくいただきました。
気がつけば、外はすっかり夜。
老舗の蕎麦屋も好きで、「かんだやぶそば」などもこれまでに紹介してきました。
ただ、この黒猫庵さんのように、新しく生まれたお店のなかにも、こんなふうに独自の切り口を持って、しっかりとお客さまを惹きつけているお店があります。
蕎麦だけを手繰りに来ても、もちろん十分に楽しめるお店です。
けれども個人的には、まずは牡蠣を。そこから蕎麦へと流れていく夜を、ぜひ体験していただきたいと思います。
浅草や蔵前界隈をゆっくり散策された流れで、日が落ちてから足を伸ばすのに、ちょうどよい距離感。
ひとつ、気をつけていただきたいことがあるとすれば、少人数で切り盛りされているお店なので、料理が出てくるまでに少しお時間がかかるということ。そして、席数もそこまで多くはないので、予約なしで入れないことも珍しくありません。
行かれる際は、あらかじめお席を押さえておかれることをおすすめします。
夏の終わり、あるいは秋の入り口。
生牡蠣と十割そばで、ゆっくりと夜を過ごしたくなったら、また蔵前まで足を運びたいと思います。
【2025年6月訪問】
「黒猫庵」
東京都台東区蔵前3-6-8
03-5809-2326
【営業時間】
18:00 - 23:00 L.O. 22:30
【定休日】
月・日
【食べログ】
https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131103/13285196/